『素晴らしき日々~不連続存在~』 「厳頭之感」内から考えさせられること
素晴らしき日々をプレイし終えたので、ふといまになって思い立ったことを書く。
今回は、「藤村操の厳頭之感」内での話を取り上げる。
(実は木村さん、巌頭之感をげんとうのかんと読んでしまう。間違ってないんだろうけど、前のところでちゃんと読めてたから多分誤読・・・ゲフンゲフン)
誤読はさておき本題
皆守と木村さんの会話の中で、時代の閉塞感を取り上げられてる。
明治時代、いまの私達からするとこれから発展する変化点のような時代でも、こういった閉塞感を覚えてるのかもしれない。巌頭之感以前、それこそどの時代、どの人でも感じさせられるのかもしれない。
私達の住む日本も、都会と呼ばれる主要な地では、ほとんど建物やインフラが整っている。先代が立て尽くした建物等が(バブル時代の夢ともいえる)いまの時代に住む私たちにとっての重荷になることもあるのだ。老朽化問題ほんとにどうなるんだろ・・・
また、漫画家水無月すうの「そらのおとしもの」では、何不自由のない生活をおくることができるシナプス(空の住人)が、不自由な生活を送る人間に希望を感じて、人間になる夢を見るシーンが印象的。完璧な世界(と地上の人間には思われている)であっても、人間は欲を求めずにはいられないのである。
そこでふと思いついたいまの平成最後を生きる私達が閉塞感から生み出されたものを取り上げる。
ひとつは、二次元の世界。
というのも、アニメやら漫画やらゲームやらが市場を賑やかしているのは今の時代の特権。
アニメは「あんぱんまん」やら「どらえもん」といった子どもたち向けのものから、ジャンルに事欠かないほどまで増え続けているし、漫画(イラストといっても良い)は、明らかに人口が増えている。むしろ飽和して海外にスカウトされる人もちらほら出てきてる。業界内でしかあまり取り上げられないけどこれって結構すごいことだと思う。良くも悪くも。
ゲームにいたっては、ファミコンやらPSやらから始まっていまやVRなんてものまで出てきた。どこまで進化するんだよ!
また、ノベルゲーなるものまである。あまりにも文化としてはゲームは異型だと思う。
あとは動画もその一端を担ってる感じしますね。昭和の人がテレビを見て時代劇にはまり、ラジオを通じて演歌やら洋楽を楽しむのと同じように、平成の人はより変化したテレビを見て、漫画を読んで、ゲームを楽しむのである。(そんなことはない)
話がながくなったけど、要は現実世界の閉塞感を、仮想世界を通じて解決してるのである。
昔は本がそれに当たるものだったけど、いまなんて携帯小説もある。筆者のこのブログでさえも、正直なところ閉塞感から開放されるためのものでもあったりする。まあ本音はただただ感想述べてるだけだからそんな立派なものはない
昭和も平成も明治もものこそ違えど本質は変わらないのだ。
そしてこれからも、時代はどんどん変わっていくだろうけど、みんな気楽に生きてこうな。時代について、閉塞感について突き詰めた考察しても、煮詰めても煮詰めきれない、考えれば考えるほどどツボに嵌まるものが多い気がする。藤村操のような頭のいい人ならなおさら感じるのかもしれない。
私は頭良くないしなあなあで生きてたからあんまり感じない
もうひとつは、日本人の謝罪癖。
よく言われるけどいまの日本人ってすんげー謝るよね。待たせたら謝罪、なにか渡しても謝罪、間違ったらめっちゃ謝るし、終いには謝罪会見なるものまである。
これも日本の閉塞感による影響なんじゃないかって思う。
どうせ謝るくらいなら謝罪じゃなくて感謝してこうな。
祈りってのは他者への気持ちが本質って由紀姉も言ってた。謝罪は祈りの中でも”自分が開放されるためにするもの”だと思ってるから、いまの謝る場面なんてそもそも閉塞されてないんだから開放することもない。いまの使い方は、本質が変わってる気がする。
だから、読んでくれた人には「どんどん感謝して、自分じゃなく”他者”への祈りをしていこうな。」って伝えたい。
もしかして素晴らしき日々ってこういうちょっとしたことから生まれるんじゃないか・・・?